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〜テロ事件について〜  
2001年9月23日 日木流奈ファミリー交流会in札幌 より抜粋


Q.わたしもいろんなことで、物事を楽しく過ごしたいなと思うんですけれど、今回、飛行機でいらしたと思うんですけど、テロのこと、もしご存知だったら、どういう風に受け止めてらっしゃるか聞かせて頂ければと思うんですけども。

〈流奈くん〉 私の意見を言わせて頂いていいでしょうか?まず、亡くなった方、ケガをした方、巻き込まれた方にお悔やみを申し上げたいと思います。私たちは、彼らのおかげでたくさんの学びを頂くことになります。感謝の思いもあります。世の中で起きている出来事はすべて私たちに物事を見る機会を、私たちに起きなくても学べるように神様が配布してくださったものだと私は考えています。当事者たちはその場で学ぶ機会を与えられたのです。今までの出来事はすべて起こるべくして起こっています。起こらなければなららいほど歪みがあったのです。そうしなければならない程、歪みがあったのです。抑えられた歪みはどこかにはけ口を見つけなければなりません。それがあのような形であったのはとても残念なことです。

すべてを分けて考えてみるといいんです。当事者のそれぞれの立場を考え、日本人として自分たちが何ができるかを考え、日々の生活で何ができるかを考え、そしてやれることをすればいいのだと思います。神の領域に入っていい出来事ではありませんが、残念ですが自分たちが正義だと思っているうちは戦いは無くならないのです。私は私が正しいから私の言ってることを聞いてほしいとは思っていません。私の中で真実ではあるけれど、決して万人に真実ではないと知っているからです。それは何故かといえば、育った環境によりすべて正義が違うからです。でなければ戦いが起こるわけがないんです。でも、宇宙の真理というのは、いつでも一緒なので、それがわかりさえすれば、どのような状態でも幸福でいられます。正義のために戦うというのは、歴史を見てみるとわかるように、すべてが自分よがりだと私は思っています。十字軍の遠征もそうです。宗教心はとても大切だと思いますが、宗教の名のもとや、神の名のもとに戦いを起こしていいはずがないのです。それは、人の正義であって、神の正義ではありません。

人の上下関係もそうです。人は平等であると世の中の聖者たちは言ってきてるのに、何故いまだにそれを続けるのでしょうか?親子でも、会社でも、学校でも上下関係をつくっているために、人々は人の心を知るすべを失いました。会話ができなくなっているのです。評価しない会話ができなくなっているために、いつでも人を判断します。学校の成績がいいか悪いかで、子供の価値を決めたり、いろいろです。評価しないで、尋ねてみればいいのにと、私はよく思います。評価のない会話が、戦いを避ける糸口です。相手が悪いと思っているうちは、相手も本当のことを言ってくれませんし、相手にとっても心地よくないですから、言ってる人の言葉なんて耳を貸しません。戦う心は、日常に根づいています。自分と違う思いの人がいて、それが理解できないことなら、聞いてみるといいです。純粋に、素朴に聞いてみるのです。なぜ、そうするのかと。そして、そのあと、相手を評価しないで、自分はこう思うとか、でも、こうするともっと良くはない?という提案をしてみればいいのです。そうして、もし、相手が聞いてくれたのなら、お互いの信頼が高まります。また、聞いてくれなくても、お互いに違いがあるだけだね、ということで、終わりにできるはずなのです。でも、それができないのは自分に正義があると思っているからです。ですから私は自分から戦う気はいつもありません。私はいつでも尋ねられました。私の思いを。私は評価されたことがありません。評価というか、非難ある評価をされたことがありません。それが心の平和を生みました。私はその時つらいとか悲しいとか痛いとかはありますが、いつでも心が平安です。肉体的大変さはいつでもありますが、それはそれだけなのです。

すべての出来事は起こるべくして起こっているのは知っていますが、私はやはりああいったことがあると、何てことするんだー、とよく思います。ただ、やった人たちの心の側に立つと、そうしなければならなかった彼らの環境もわかるのです。それを避けるために人の心を互いに知り合う関係を築いていけたらいいですね。だから、私は評価する人には近づかないようにしています。私からも評価しないようにしています。互いに気持ちよく、それぞれが違うんだね、感じ方が、考え方が、と思えればいいですね。




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