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「クリスマス」   2002年8月20日


<しあわせ>
神経質な程澄みきった空気に触れ
かわいた唇が 透き通っていく
しあわせ
澄みきった空気は私の言葉さえ色を無くし
透き通らせていく


20
才の頃の私から生まれた詩です。
この当時の私は、透き通ったしあわせがどこかにあると信じようとしていたのかもしれません。

私は幼い頃、とても子供らしい子供だったようです。外で遊ぶのが好きで、夏休みなどでは午前午後と、田舎の祖母宅から近くの澄んだ谷川に泳ぎに行っていました。小さい時から近所の人や大人にはほとんど見境なくなついていました。そんな子供らしく生きているはずの私が、母に言わせると、「あんたは何が悲しいのか小さい時からため息ばかりつく子だった。」というのです。

どのような現実を私の瞳に映しだし、それが当時の私にどのように影響を及ぼしたのか、今となってはそれは解釈にすぎませんが、ただ、私は自分でも気づかないうちに子供らしく生きる時間と、ため息ばかりつく時間を同時に生きるような子供として成長していったようです。

12才時に私は脳内出血を起こし、それまで野球選手になることだった夢が全く無に帰し、中学も、進学予定だった中学には進めず、養護学校へと進学することになりました。ここでの私の学び、体験はいずれ書かせて頂くことにして、今回は母親に関してです。養護学校にはスクールバスで通っていたため、月に1度母親にバス当番という役割が回ってきました。重度障害の人もかなりいたため、バスの昇降に際して補助を必要としていたのです。

これまで健常者と呼ばれる人達しか目にした事のない母親にとって、よだれを垂らし「ワーワッ」と寄りかかってくる人種は、彼女には辛く、悲しい現実でした。「なんでこんな子達と健康優良児として生まれた我が子が同じ乗り物に乗っているのか」と。
よだれが手に付き、「瀧本のおばちゃん」と無邪気になついてくる重度障害児の子供達が汚らわしく、家に帰っていつまでもよだれの付いた手を石鹸で洗っていたそうです。

半年程たった頃でしょうか、「瀧本のおばちゃん」とよだれを垂らしながら抱きかかってくる子供達、腰の悪い母はそれでもしっかりと、その子達を受け止めていました。
後に母は私にこう語りました。

「最初は、本当に気持ち悪かった。よだれがついたら家に帰ってきてからずっと洗っていた。それがある時から、みんなが可愛くてしようがなかった。自分から抱きしめにいくようになっていたんよ。」
それを聞いた私は本当にしあわせでした。
学びとか成長とかとは無縁だと思っていた母親が人を愛せるようになっている、それが嬉しかったのです。当時の私でさえも…。

「アリーマイラブ」というNHKで放送されている、ボストンを舞台にしたドラマに次のような台詞があります。
自分をサンタクロースだと思い込んでいる小学校の老教師が精神的病いとして、学校側から辞職を請求されている裁判でのやりとりです。学校側の弁護士と、(その辞職の撤回を要求する)サンタクロースだと信じている老教師本人との会話です。

 弁護士「生徒に今日は何の日かと聞かれたらどう答えます?」

 本人「クリスマスだと答えるでしょう」

 弁護士「どんな日でも?」

 本人「どんな日でも」

 弁護士「では今日もクリスマスですか?それとも1211日か?」

 本人「よりけりだろうな」

 弁護士「何に?」

 本人「つまり、あなたが子供達の要望に答える気があるかどうか。老いていく人間の弱さや孤独を思いやる用意があなたにあるかどうか。友人に好かれているかどうかを気にするのではなく、自分からもっと好意を示そうと思っているかどうか。思っているならクリスマスだ。毎日がね。」

  ※ヘンリーバンダイフの詩の引用
  「人を愛し思いやる心があれば毎日がクリスマスになる ー 1日そういられるならずっと続ければいい 
   ー でも
1人では続けようがない。」

 
私の母親にとって、よだれまみれになった手を洗う必要がなくなった日、自分から彼らを抱きしめた日が彼女にとってのクリスマスとなった日だったのかもしれません。それは障害を持つ子供達が送りつづけてくれていた愛を彼女が受け止め、抱きしめた瞬間でした。

足立育朗さんが私にこう伝えてくれました。
「朝起きられたら、おはようというご家族への言葉に『はじめまして』という思いを入れてください。昨日のご家族とは1日たてば全く違った振動波をされているのです。振動波で見れば全く違った人なのです、みなさん…。それに気づかれた方が淡々と楽しみながら『おはよう(はじめまして)』と伝えてください…」と。

    
     
 白い鳥

   黒くかすんだ 山あいに
   沈みきった影色を 破って
   白い鳥が 一羽 飛立った
   
   語ることをやめた 一つの命が

    
 湖面に吸い込まれた後の 波紋のように
    影色はにわかにゆらめき
    色彩をとり戻す

   春はまだ来ない 冬はもう遠い昔

    ゆらいだ自分の影に目を落とし
    
遠く去っていった白い鳥を
    想っていた


最初の詩と同じく20才頃生まれた詩です。
今現在の私がこの詩に目を落とすとき、当時の私はため息をまじえながらもぼんやりとしあわせを見つめようとしていた事が感じとれます。

そして今の私は、静かに、そしてもっと確かな足取りをもって、クリスマスが自らの内にあることを感じているようです、そう毎日が…。

サンタが誰かを問うこともなく…。




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