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早い時間 遅い時間   2002年6月5日  



「今日は一日が早かったね」
最近、スタッフとよく交わす会話です。でも時には、「今日は一日が長いね」というような言葉がもれるときもあります。お客様との話がはずみ、2時間、3時間が30分ぐらいにしか感じられない「あっ」という間に時が過ぎてしまうという体感です。また、お客様がいらっしゃらず、苦手だと思う事務仕事をしている時、時間は間延びをしたように、進んではくれません。同じ1時間が何故このような感覚として私達には感じられてしまうのでしょうか。そして、それは本当に感覚だけのものなのでしょうか。私たちの人生において、早く過ぎる1時間と遅く過ぎる1時間が、実際に存在しているのでしょうか。

 人生を楽しく穏やかに生きていらっしゃる方は、年齢より10歳程若く見えるということは、日常的によく体験することです。その逆もあります。何かしら人生に疲れていらっしゃり、愚痴の多い方は実年齢より老けて見えるということも、よくあることです。社会的に適応され、いわゆるしっかりしている方というのはそれ相応の年齢であり、相対的には老けていらっしゃるように見える方が多いのは気のせいでしょうか。なぜ、見た目においてそのような違いが起こるのか、それは私たちひとりひとりが固有な時間を生きてしまっているからではないでしょうか。

 物理学においても、光速で進むロケットに乗っている人の時間と、地上にいる人との時間には大きな差が生まれることが理解されています。新幹線に乗ってさえも、0.のあとにいくつゼロが付いたのかは憶えてはいませんが、乗った方と乗っていない方ではわずかながら時間的差異は生まれるのです。生まれてからこれまでの人生で、私たちは共通の時計時間を生きているように思っています。しかし本当は、時計時間とは別の固有時間というものをひとりひとりが生きているようです。 それゆえ、目の前にいる友人、家族、一人一人、実は、自分と違った時間を体感しながら存在しているといえるようです。ですから、本質的には40歳で亡くなろうが、60歳あるいは100歳を超えて亡くなったとしても、単純に時計時間だけでは計ることのできないもうひとつの時をその人の内に刻んでいると言えるのかもしれません。

 では、私たちは受精後、ずっと時間というものを感じながら生きてきているのでしょうか。
そうではない、と私は考えています。それはよく言われることですが、子宮にいる期間、10ヶ月と10日です。それは本来、私たちが最も安定している時期なのではないかと思っています。なぜなら、その時が唯一時間を気にせずいられた空間だったからであり、言い換えれば時間の存在しない空間と言ってもいいのかもしれません。なにせ、その空間内では自分の存在しか無いのですから。

 私は幼い頃、よく大人をつかまえては話をするのが好きだったのですが、幼稚園に通っている頃だと思いますが、「浦島太郎は竜宮城から人生という時間を玉手箱に入れて持って帰って来たんだね」というようなことをある中年男性にむかって言っていました。
 竜宮城は子宮の中の喩えであり、時間が存在せず、そこからいったん出てしまった浦島太郎は玉手箱という形で自らの固有な時間をもって帰らざるを得なかったのではないでしょうか。浦島太郎が玉手箱を開けたのは興味からなのでは当然無く、自らの固有の時間を生きる存在としての人間にとっては宿命とも呼べる必然の出来事であり、また、その決心、玉手箱を開ける決心が無い限り、私たちはずっと居心地のよい時間の存在しない空間に留まり続けることを意味しており、玉手箱を開けないという行為は人間として時空間を生きることを拒否しているということになりそうです。それは、無理なことなのですが…。


 では、そもそも時間とはいったい何なのでしょうか。
私たちひとりひとりが違った固有時を生きており、言い換えればおのおのが違った時を刻んでいるにもかかわらず、地球はある銀河系に属し、自転し、太陽系第三惑星として、太陽の周りを公転しています。他の惑星と衝突することなく…。
 そして、ある瞬間、その星に寿命がおとずれ、消滅します。その星の時間が終わりを迎えるのです。それと同じように私たちひとりひとりにも死という終わりを迎えるときが刻一刻と近づいてきています。

 何も無いクオークから、ビッグバンという現象によって私たちも星も生まれたとしたなら、又、私たちは全ての存在物と等しくクオークに戻っていくのかもしれません。たとえ私たちの本質が何万回と輪廻転生を繰り返そうとも、いずれの日にかまた、クオークそのものに戻っていくのです。
 そして、クオークから生まれ、クオークに戻っていくストーリーが宇宙と呼ばれるヒストリーに複雑にみえながらも実は、シンプルに編みこまれた真理であり、時間の本質なのかもしれません。

 今日、夜空を見上げた時、無限に広がりを見せる宇宙は、私たちと同じクオークからできており、いずれまたクオークに戻っていく仲間なのです。
 その宇宙がただシンプルで、飾りを落としきった愛と調和そのもので満たされた時、クオークに戻った私たちはまた、新しいクオークとして誕生するのかもしれません。
 その時、時間もまた…。




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